編集部
舞踏家 大野慶人先生が、1月8日に亡くなられました。81歳でした。謹んでお悔やみ申し上げます。
当協会とはご縁が深く、第4回大会(1995)、第7回大会(1998)、第13回大会(2004)においでいただきました。
会の皆様からいただきましたご一報は、すぐに掲載いたしました(JADTA News 135号 にも掲載)。
その後も会員の皆様から追悼のお言葉をいただきましたので、あらためて掲載いたします。(順不同)
大野慶人先生のこと
加藤道行
大野先生が亡くなられてしまった。まるで、桜が散るようにあっという間に。
慶人先生の稽古の言葉の中に、「部分の中の部分」というものがあります。その言葉を借りるなら、私がお伝えできるのは、私を通してみた慶人先生の部分の部分であり慶人先生のほんの一部であることをご了解ください。
大野一雄舞踏研究所を初めて訪れたのは、2000年頃だったと記憶しています。1995年頃よりしょうがいを持った方々の身体表現の活動を行っていて、自分自身も踊りの勉強をしたいと思って研究所の門をくぐりました。
その時は、まだ、一雄先生がお元気でいらして慶人先生は、影のように一雄先生を支えていらっしゃいました。しかし、ほどなくして一雄先生に認知症の症状が表れるようになり、慶人先生は、認知症の一雄先生の舞台を支えながら、日常的には一雄先生の介護を行うという大変な時期に入られました。研究生数名で、介護のお手伝いするチームを組みましたが(私もその中に入れていただきました)、介護だけでも大変であったのに合わせて一雄先生の舞台をつくるというのは、筆舌に尽くしがたい御苦労があったと思います。実際、この時期の慶人先生を傍でお手伝いさせていただいていましたが、本当に大きなストレスにさらされていらっしゃったと感じています。
それでも「大地の芸術祭 越後妻有アートトリエンナーレ」のプレイベントで生け花作家の中川幸夫氏とのコラボレーション「花狂い」(2002年5月)を成功させ、夕方になると見当識の低下から「函館に帰りたい」とおっしゃる一雄先生のために函館公演(2003年2月・函館金森ホール開館15周年記念「我が母の教え給いし歌」)を実現していらっしゃいました。
一雄先生が103歳でお亡くなりになった(2010年6月)後は、名実ともに大野一雄舞踏研究所の所長として、世界中から訪れる研究生に舞踏の真髄をおしみなく伝えるとともに、国内外で、精力的に舞台やワークショップをこなされていました。ワークショップは、ダンサーのためだけでなくしょうがいを持った方のグループにも行われました。そして、それらを通してご自身の踊りも深めていかれたと思います。特に東日本大震災の後につくられたうさぎの姿になって浜辺の歌で踊る舞踏は、人々の痛みに寄り添う祈りの舞踏で他の誰にも踊れない比類なき素晴らしい踊りでした。
また、慶人先生は、本当に生活というものを大切になさっていました。慶人先生は、お母様がお亡くなりになった後、ずっと台所に立たれてご家族のために毎日の食事をつくっていらしたのですが、ある日の本番の朝、いつものように食事の準備をされている慶人先生に奥様が「今日くらい休みなさいよ」とおっしゃると「舞踏家が料理をつくっているんじゃない。料理する人が舞踏を踊っているんだ。」とおっしゃり、いつものようにご家族のために料理をされてから劇場に向かわれました。慶人先生は、日常生活の何気ない一つひとつをとても大事にされていたのだと思います。また、稽古の中で、あなたの軸足は何ですかとおっしゃり、踊り以前にどのように生きているのかを研究生一人ひとりに問われていたと思います。「人生をきちんとつくることであなただけの舞踏が生まれる」そんな確信が慶人先生の中にはあったのではないかと思います。大野一雄舞踏研究所は、舞踊団という形式をとっていません。それは、一人ひとりがソロの舞踏家として、自分の舞踏を踊ることを一雄先生も慶人先生も大切になさってきたからだと思います。「一人ひとりが花である」「あなたはすでに作品である」それがいつも稽古のスタートであり、初めて来た人も10年通っている人も一緒に稽古する理由ではなかったかと思います。
私にとって踊るとは何か、しょうがいを持った方々や認知症の方々と一緒に何を大切に踊るのか。慶人先生が亡くなられた今、慶人先生がおっしゃられたことを自問自答しながら自分自身で慶人先生の教えの理解を深めてその答えを求めていかなければと思います。そして、しょうがいを持った方や認知症の方々、必ずしも舞台に立とうと思っていないその他大勢の方々の生きることをお手伝いする、人生を豊かなものにすることを「踊り」を通して行っていきたいと思います。それが、私の軸足であり、私が咲かすべき花であると考えて励んでいきたいと思っています。
最後に、慶人先生本当にありがとうございました。先生が残してくださった「生きること」「命を大切にすること」と踊りとの関係を深める道しるべを胸に自分の舞踏を深めていきたいと思います。どうぞ、天から世界中の先生を慕う研究生をお見守りください。
大野慶人先生追悼
永井順子
女装の麗人ポスターの不思議な世界に惹かれ、当時、東西統一の歴史的現象が進行していたドイツで大野一雄、大野慶人舞踏公演を初めて観たその翌日、勇気を奮い人生初の舞踏ワークショップに参加したのが30 年前。2012年以後は大野慶人先生の欧州公演を見せていただく機会がありました。ベルリン、ミュンヘン、クラカウで行われたワークショップの時、ほとんど休憩無しで慶人先生は立ちっぱなし。周囲に心地よい緊張と静けさが水輪のように伝わりました。その佇みそのものがご自身の言葉「秘するば花」そのままに思えました。どの国でも滞在中先生はほとんど外出されず、地元ならではのレストランにも滅多に足を運ぶことなく宿の中で過ごされていました。純粋に舞踏を常に想い、それを海外の参加者にどうお伝えするかと常に創造の責任者!として集中されていたのです。何度となく先生が宿に残り、私と公演のお手伝いに付いていらした夫人とお嬢さん3人で街歩きができたことも忘れ難い思い出になりました。
今までどれだけのひとが上星川の稽古場の空間で時空を超えた心の踊りを体験したことでしょう?大野一雄氏が勤務された学校の廃材で建てた戦後の家屋。この空間に居るだけでここで集った多くの人と繋がっている気がしてきます。召された後も神のもとで踊り続ける一雄先生、優しく見守っていらっしゃる慶人先生、稽古に頻繁に通っていた堀切敍子(会員、故人)さんにも会える気がする奇跡的な空間でした。
出棺の時に弟子はみんな赤いバラを手に見送りました。かつて 公演でグループで歩いて行く場面を振り付けるとき慶人先生がよく使われた言葉「花の葬列」そのものでした。稽古場で「舞台は終わりが大事、日本には雪月花と3通りの終わりかたがある」と仰っていましたが、大野先生はどの美にも当てはまる終章をご自身で見せて下さいました。稽古場の仲間たちと火葬場までついて行き、師匠の骨を拾わせて頂きました。「舞踏とは必死になって立っている屍」と土方巽氏の言葉を慶人先生が説明されていました。なんとリアルな。訃報を聞いて欧米から駆けつけた人達も数人以上いますが、みんなLost Ohno Syndrome!?から歩み出す気力を失っています。
慶人先生は土方巽氏の「舞踏は創造と破壊、創ったら壊す作業を繰り返す」という言葉を稽古中によく話されていました。1960年代の日本、当時の社会背景から噴火したように突然浮上した舞踏が世界的に注目され、そのエッセンスが21世紀のいままで多くの表現芸術に影響を与えてきました。それと共に舞踏という生き方を見つけた人の絆が世界に広まっています。
舞踏のおかげで私に世界中に心の友ができました。離れた国々で舞踏に触れた人たちがワークショップで自身と周囲への視点を深めていき、国、言葉を超えて心が共鳴していく不思議な現象。感動の心と身体、価値観を超えた表現と受容。ダンスセラピーと共存する世界を持つButohを世界に紹介する活動で感動の輪が広げてきた先見あるマネージャー溝端氏の影の力も大きいと思います。
人々は今求めているもの、つまり現在失っている「何か」を観たいのです、それを舞台で見せることが大切。と話された慶人先生。これからの表現芸術の燈を灯してくださいました。
大野慶人先生 ほんとうにありがとうございました。
大野慶人先生追悼
町田章一
先ほど大野慶人先生の告別式から戻りました。
式場の上星川教会(日本基督教団)には広々とした前庭があり、冬枯れの木々に囲まれた中を進むと急に小鳥たちのかまびすしい声が聞こえました。静謐な慶人先生を思いながら歩いていたので、聖フランシスコを連想しました。教会の建物はその広場から急な階段を30段程上がった丘の上にありました。欧州でよく見かけるゴルゴダの丘を模した小山を昇り詰めると、日本ダンス・セラピー協会の加藤道行会員が私たちを出迎えてくれました。彼は慶人先生が亡くなる時まで傍らで献身的にお世話をして下さったと聞いていましたのでそのお礼を言いました。礼拝堂では、ドイツから急遽帰国した永井順子会員にもお礼を言いました。
会葬の方は300名程でしょうか。皆さんが黒の礼服姿で、静粛な雰囲気でした。慶人先生のお父上である大野一雄先生がキリスト教信者であり、この教会と関係が深く、併設されている幼稚園のクリスマスの時にサンタクロースをなさっていたと聞きました。慶人先生は一雄先生の後を引き継ぎ、毎年サンタクロースをなさっていたそうです。クリスマスに集まった子供たちやその家族の最後の一人が見えなくなるまで、慶人先生はサンタクロース姿で手を振っていた話を聞きましたが、実に慶人先生らしく、心が温まる話でした。本当に先生は真面目で、真摯な人だったのですね。式場で渡された式次第に次のような慶人先生の言葉がありました。「わたしは、さきの戦争がおわった時に7歳でした。わたしは戦争のない平和な世の中になってほしいという思いで、ずっと踊って来ました」 それほど深い思いで生き、踊っていらっしゃったのですね。
はじめて慶人先生のワークに参加した時、片手の指の間に一枚のティッシュ・ペーパーを挟み、その白い花を慈しみながら歩くワークをしました。参加者は黙って黙々と何十分もひたすらそのワークに没頭しました。こんなにも単純なワークに人々を導くことが出来る人は尋常ではないと直感しました。そのワークの後半では「うれしいな」と言いながらしばらくの間スキップをした後で今度は、「かなしいな」と言いながらスキップしたとたん、悲しみをこらえている子供の気持が心の底からどっと込み上げ、私は嗚咽しそうになりました。主催者側であった私は必死にこらえたことを思い出しました。シンプルな動きの中に深い心を籠める。ダンスセラピーにとっても大切なことのひとつだと思いました。
慶人先生は一雄先生の息子であり、土方巽の「禁色」に少年役で出演し、父親と同じ舞踏の道を歩まれました。私は門外漢で詳しいことは知りませんが、土方巽、大野一雄という舞踏の両巨頭の接点に位置している方で、その重みはさぞかし重いことだろうと拝察していました。慶人先生にお目にかかる機会が何回かありましたが、静謐で、真摯で、修行僧のような雰囲気と共に、重荷を背負ってじっとこらえていらっしゃるようにも思えました。八十年にも渡って耐え忍んで来た先生に対して私は「ありがとうございました。どうぞ重荷を降ろして下さい。長い間よく耐えて下さいました」と心の中で申し上げました。
1時間ほどの式が終わると献花になりました。大沼幸子会長には愛を表すピンクのバラ、私には癒しを表す黄色のバラが渡されました。やわらかなパステルカラーの大輪の薔薇が一つひとつ先生の棺を埋めて行きました。私は傍らに立っていらっしゃった奥様に、日本ダンス・セラピー協会が大変お世話になったことのお礼を申し上げました。先生とお別れをした人から順に礼拝堂を出て、先程の広場で出棺を待ちました。礼拝堂から下の広場を見ると、緑の絨毯の上に黒い礼服を着た人たちがみんな白い鳩、平和の象徴が描かれた黄色の袋(ハトサブレ)を持っていました。緑の絨毯の上に黒、黄色、白・・・、素敵な色どりでした。その中に、多くの人に担がれた棺が一歩一歩階段を下り、その後に深紅の薔薇を掲げた人たちの一群が続きました。大変美しい光景でした。
告別式を執り行なった牧師さんによると、「ターミナル」という言葉には「終点」という意味の他に「分岐点」という意味もあるそうで、死は単なる終わりではなく、新たな旅立ちだそうです。慶人先生のような人生を送る人は稀だと思いますが、慶人先生はどのような世界を思い描いて旅立ったのでしょうか。ちょっと興味があります。
大野慶人先生は私たちがセッションや年次大会で大変お世話になりました。協会の会員でも役員でもありませんが、私たちにとって特別な人でした。心からお礼を申し上げます。
令和2年1月13日
大野慶人先生を偲んで
大沼小雪
大野慶人先生の告別式は、まるで映画のように美しいお別れでした。お弟子さんたちが、一斉に赤いバラを手にして、列をなして棺と共にゆっくり坂を下りてきました。お花料もご辞退され、心から純粋に踊り、平和を願いながら生きてこられたのだなあと思いました。お天気の良い日で、小鳥たちが天に召されたのを祝福しているかのようでした。でも、私たちは悲しみでいっぱいでした。
私にとって大野慶人先生は、我々のダンスセラピーに1つの革命をもたらしたといっても過言ではない存在でした。それは、2009年日本芸術療法学会で特別講演をお願いしたときのことです。世阿弥の風姿花伝の中にある「秘すれば花」を舞踏の動きと共にご紹介いただき、「悲しいことも悔しいことも、うれしいことすらも秘する」そしてそして何事もなかったように日常に戻る。また、「じっと辛いことを我慢する」、そこが見せ場なのだと、日常生活の中でも苦しくなったときに、「よし、これが見せ場なんだ」と。ユーモラスに語る大野先生。「舞踏はいつまでたってもバカなことをしているなといわれるようなところがないといけないんだ」と土方巽に言われたと聞き、意味がないところに意味がある、存在の意味がある。そこにはいくつもの真理が隠されているように思われました。
大野先生のワークは今まで受けたことのない、感じたことのない不思議な深いワークでした。その大野先生をお呼びするときは、いつも側近である永井順子さんに仲介していただき、講演やワークショップが実現しました。永井さんにもお礼を申し上げます。
私は舞踏家ではありませんが、大野一雄先生、大野慶人先生が内側に秘められたことを思い出しながら踊っていきたいと思っています。本当にありがとうございました。
荒川香代子
大野先生の訃報を知り、深い寂しさを今感じています。
私はずいぶん昔になりますが、大野一雄先生の公演やワークショップを通して慶人先生にお会いしました。一雄先生を支えつつご自身の表現の世界をいつも模索されている印象が残っています。
以前スタジオにお伺いした時、いろいろお話をしてくださいました。その中で日本人本来の腰や足使いには独特の動きがあり、今の時代では歌舞伎の世界でしか見出せないと、その振りをいろいろ体の動きや向きを変えて実際に動きながら生活の仕方(習慣)や文化に影響を受けている身体について話されていたのを思い出します。また「飛ぶには大地にこの足をしっかりと踏ん張り、待って、待って飛ぶその一瞬を見つけて思いきり踏み出すのです」といった言葉が頭の中でよぎります。こうした言葉に、まるで私の体の中がその瞬間を待って動くような感覚が触発され、同時に慶人先生が微細な動きにも丁寧に見つめ取り組んでいる姿がありました。
長く使われてきたスタジオにはいろいろな一雄、慶人先生が舞台で使っていたものや写真が周りにあり、ここに世界中から沢山の人が来て稽古をしてきた独特の雰囲気が漂っています。慶人先生は「見知らぬ多くの方達がいろいろな国からやって来て、それぞれの思いを表現して去っていきましたよ。いつも誰でも使えるようにオープンにしています。言ってみれば小さな教会でもあるかな~・・・ハハハハハ…」柔らかな声でそっと語ったことを覚えています。実際、ダンスをここでしながら「自分の心を見つめていた」と話していた方を多く知っています。
大野慶人先生のご冥福をお祈りします。
神宮京子
大野慶人さんの訃報に接し、深い寂しさを感じずにはいられません。
心から哀悼の意を捧げたいと思います。
今、あるワークを受けた時のことが蘇っています。
それは広い体育館でしたが、その空間を超えてなお満ちる大野さんの静かなる激しい感情です。
めくるめく人の歴史の中で繰り返される争いへの強い憤り、それに打ちのめされることのない平和への絶えざる祈り‥。
大野さんのからだがその空間に存在し、ただ共に歩くという営みの中で、私は涙があふれてきたのを思い出しています。
ご冥福を心よりお祈り申し上げます。
編集部
“大野慶人先生追悼(続き)” への1件のフィードバック
素晴らしい追悼の言葉の数々に感動しました。
加藤さんの20年の思い、見事に伝わります。
舞踏を見続ける1人として感謝します。