JADTA梅田基金助成金による「こころとからだのケア」災害支援活動報告
第1回目 2011年10月8日(土)7時半~19時半
活動場所:宮城県石巻市仮設住宅
チーム(宮城県日本精神科診療所協会心のケアチーム 6名):精神科医1名(三重県)、臨床心理士1名(横浜)、精神保健福祉士2名 (福岡、広島)、事務局スタッフ(運転・案内)1名、看護師(大沼)
目的:仮設住宅で暮らす人たちの心身の相談、「カフェ」を開き住人同士の交流を促す。
朝、7時半に仙台市の原クリニック前(仙台市の日本精神診療協会拠点)に集合。チームのメンバーに挨拶しワゴン車で石巻に向かう。途中コンビニに立ち寄り10分程休憩し、9時半に石巻の心のケアの拠点となっている「宮城クリニック」に到着。1階部分の1メートルまでが津波で水につかったという宮城クリニック。PCも車も使えなくなり、どろどろになった建物を一生懸命きれいに使えるようにしたという。土曜日だったその日は外来に患者さんたちがきていた。
原クリニック院長が復興のためのNPOを立ち上げて、石巻のビルの1階を借り上げ、そこを拠点として活動する予定とのことで、そのビルの1階を見学させてもらった。「からころステーション(からだとこころを省略してからころ)」石巻の訪問が初めての大沼のために、また今後継続する場合のために、事務局スタッフはそのビルをみせて(案内)くれた。ブティックだったその場所は60平米くらいあり、ダンスは十分できる。ヒップホップが得意の事務局の若い男性からマイケル・ジャクソンのムーンウォークをスタッフ全員、遊び半分で習う。
スタッフが作成した地図をもとに、我々は仮設住宅に向かった。途中はまるで廃墟の光景が続いた。屋根と柱だけが残された住居、跡形もなく残骸だけがごみのようになっている場所も多かった。少し迷いながら1時間ほど走って目的の集会場に到着した。
仮設住宅には一番端に集会所が設置されてあり、住宅と同じ間取りと思われるが、1DKであった。そこに車に積んでいた「カフェ」の品々(椅子、コーヒー、やかん、お菓子、血圧計、おみやげのウエットティッシューなど)を降ろしてカフェの準備。医師はそこに待機し、私は経験あるスタッフと共に1軒1軒訪ね、カフェのお誘いと医師もいることを伝えた。
警戒する人もいるので、スタッフは宮城県から派遣されていること、名札を見せて丁寧に挨拶していた。留守にしているところも多く、在宅していた人たちの中には老老介護で、家を出られないという方もいらした。車で出かける途中の人は、集まりがあると聞きまもなく帰ってきて参加してくれた。
すぐ参加してくれた方と、足が悪いから行けないという高齢の女性がいたが、支えるから大丈夫ですよ、というと応じてくれた。
8人くらいの人が参加してくれた。医師は時間をかけて、1人1人の話を聞いていた。私は看護師であることを忘れて、血圧も測らずにカフェの集団の中に入り話を伺った。「普段あまり交流がないからこんな風にお茶会してくれるとうれしい」「こうやって飲むコーヒー、おいしいね」「おしゃべりできて、うれしい」「定期的にやって欲しい」と殆どの人が喜んでくれた。
私はスタッフに促され数人の血圧を測定した後は、1人の方が運動不足、足の筋肉が弱るという話から、大腿四頭筋を鍛える方法を教えた。その後、1人ずつ全員の腕をひっぱり(ストレッチ)、背中叩きをしたり、肩をさすったりした。80歳を過ぎた男性が、「ダンスを25年もやってきたが、できなくなった。ところがこの間、町にでかけたらダンスの看板があった。今度そこにいこうかと思っている」うれしそうにと話してくれた。「それはいいですね。ダンス、ここで少し踊ってみませんか?」と誘うと、椅子から立ち上がり、しっかりとホールドし私をリードして踊り始めた。ブルース、タンゴ、キューバンルンバ。とても上手な方であった。1つ1つ解説してくれ、先生から教わっているような気がした。まさか、ここでダンスができるとはお互い思っておらず、突然のダンスタイムにしばし、夢の時間を過ごしたような気がした。
訪問を終えてから、チームで情報交換をした。医師は被災者の話をじっくり聞き「やっと語れるようになった」と涙ぐむ人もいたと話し、こころのケアの必要性を感じ取っていた。さすが精神科医だなあと感心した。また、母子で参加した人と話したスタッフは、子どもが学校に通わないという情報を得ていた。私は高齢者のカフェの雰囲気からもう皆さん前向きに、これからのことに思いを馳せて、現実と向かい合っている様子だったので、あえて被災時のことには触れなかった。たまたまうつ状態の人は1人もおらず、集まった人は明るい方が殆どであった。仮設住宅にいても、心配ごとはたくさんある。しかし、そこに集まった人たちは現実を受け止めつつ、人との交流を求め前向きに生きていこうとしている姿であった。
私たちは全ての人の力になることはできない。しかし、出会った人1人でもお互い出会えて良かったと思える関わりをしたいと強く思った。本当にケアを必要としている人は、集団の中に出てこられない人なのかもしれない。しかし、出てこない人を強引に誘うことはできないし、関係を作るには時間が必要である。集まってくれた人に自分がしたことはもしかしたら、ひとりよがりの行動だったかもしれない。それでも、ダンスセラピストとしてその場でできることを考え、触れ、身体を通して交流できたことは、ダンスセラピーの活動の可能性があるということではないかと思った。
仮設住宅訪問の後は、被害の大きかった南三陸町を訪れ悲惨な現状を目の当たりにし、逃げ場所もなく多くの小学生が津波に呑み込まれた小学校跡をみて、いたたまれない気持ちになった。
南三陸町ではクジラの大和煮の工場があり、宣伝用の巨大缶詰が道路の真ん中に倒れたままになっていた。訪問から2週間後、池袋で南三陸復興のくじらの大和煮の缶詰が売られており、思わずそれを買った。
2回目:11月20日(日)7時半~19時半
場所:石巻水押仮設住宅集会所
目的:仮設住宅に住んでいる人たちの交流とリラクセーション
チーム(12名):医師3名(横浜2名、東京1名)、作業療法士1名(横浜)、精神保健福祉士2名(広島、神奈川)、ケアワーカー2名(仙台)、相談員1名(横浜)、看護師2名(神奈川、東京:大沼)、ダンスセラピスト(町田)1名
お天気に恵まれ、車窓から紅葉も楽しめた。9時半石巻「からころステーション」に到着し、ミーティング。ステーションでは「石巻ラジオ体操」のCDを紹介され「うでば めえさあげで(腕を前に挙げて)イッツ、ヌー、サン、スー(いち、にー、さん、しー)」と温かいズーズー弁を聴きながらみんなで体操をする。(このCDを聴いてみたい方は町田先生か大沼までお問い合わせください)
スタッフ人数が多いので2班に分かれて活動。1班はステーションでの相談業務。大沼と町田は2班で仮設住宅でリラクセーションとダンスを担当することになった。
10時に車で移動。水押仮設住宅集会所に移動し、カフェの準備を始める。仮設住宅の代表者がいるということで、スタッフが挨拶に行く。11時より活動開始。前日一部にチラシは配布しているが、全部には行き渡っていないということで、カフェと相談室の宣伝のため、外で声かけする人と中で待機する人と別れる。
この日は18名くらいの人がカフェに参加してくれた。
参加者はまず医師と面接をしていただく。待っている人が多くなった場合はカフェに誘い雑談したり、リラクセーションを導入した。町田先生は肩のマッサージをしながら話を聞く。お茶を飲み町田先生に肩をマッサージしてもらいながら高齢の女性たちは色々なことを語ってくれた。
82歳、女性。デイケアに行っている時に被災した。避難所ではみんな暗く落ち込んでいたので、地元に伝わる大黒舞を歌って踊って励ました。これまでいろいろな苦労もしたし、大きな災害にも会った。だからいつまた災害があっても良いように準備している、と言って、小さなバッグの中から、水、少量の食べ物、ビニール袋などを見せてくれた。
いつの間にかこの方のまわりに相談者が集まり、この方の話を興味深く楽しく聴き入り、12時半を過ぎてもその場から離れようとしなかった。
大沼は数人一緒にリラクセーションを実施した。仰臥位になってもらい、両手、両足をシェイクしたりストレッチ、頭部のリフティングとフローティング。2人組で座って背中合わせ。立って、背中叩き。リラクセーションでは「何だか、魔法にかかったみたい。気持ちいい」と反応。1名のみ体が石のように硬く言語での反応が全く見られない人がいた。この方は医師面接でも気になる人にピックアップされていた。少し時間をかけたいと思う方であった。
高齢者が多い中、午後から40代女性が2名見えたので、リラクセーションとダンスを行った。初めて行うダンスステップに「え~っ、これ面白い」と積極的に踊っていた。
また、大沼のリラクセーションを受けながら70代女性は、「震災のとき、車を運転して2時間も津波で流されて助からないと思った。今、こうやって生きているが何もいいことがない。あの時死んでいれば良かった。早くおじいちゃんのところに行きたいよ、と小学生の孫に言ったら『おばあちゃん、今は天国も地獄も人がいっぱいいるから行けないんだよ』と言われたの。」と教えてくれた。本当になんとユーモアのあるお孫さんであろうか、と感動すらした。
(あらまあ、・・・そうしたら、天国にも地獄にもいけないものね。この世で生きるしかないってことですね。なんてユーモアのあるお孫さん!)「そうなのよ。良い孫なんだよ。自慢するわけじゃないけどね」人を苦悩から救うのはユーモアの力だとつくづく感心した。
医師からの報告では・高齢の夫の認知症がひどくなっている(80代女性)、子どもの友達が手を離したら津波で流されてしまった。(子どもに喪失反応がみられる:40代女性)、何も話さない(うつ病のレベルか?:70代女性)、などが報告され、継続してフォローできるように現地スタッフに申し送られた。医師に話を聞いてもらうだけでも心が軽くなるという人が多いようである。
ダンス・リラクセーションでは、比較的反応がよくこのようなことを今まで体験したことがなかった。またやって欲しいという声も聞かれた。
前回の仮設住宅より参加人数が多かったのは、前日ポスティングをして宣伝したのも影響しているのではないかということであった。大沼が行く回数は少なく、不定期であるため、リラクセーションを提供できる人を定期的に派遣することも検討したいと思った。
3回目:12月17日(土)7時半~19時半
場所:石巻駅前「からころステーション」内
目的:ステーションを訪問した人へのダンスセラピー的関わり
チーム(7名):医師1名(神奈川)、精神保健福祉士2名(神奈川)、作業療法士1名(スタッフ)、ケアワーカー2名、看護師(大沼)
この日の朝、仙台は一面真っ白に雪が降り寒い日であった。石巻についた頃は雪も溶けて快晴であった。仮設住宅を予測していたが、この日は石巻の駅前に設けられた支援施設「からころステーション」内で相談業務にあたることになった。このステーションは毎日10時から相談業務を開始しているところである。常連さんもやってくるということであった。案の定、常連の80歳前後の男性が訪れて、常駐の若い女性スタッフ(OT)に話をきいてもらいにきていた。男性スタッフより若いお姉さんスタッフをご指名らしい。1時間ほどステーションで話して帰った。ステーションを出てからも駅で1時間ほど時間を費やしてからバスで帰ったようであった。人のよさそうな話好きの方で、相談というよりは人を求めてやってきているようであった。
「からころステーション」ができてから1ヶ月ほどたっていたが、自ら訪れる人はわずかで外で呼び込みをすることになった。からころステーションの案内と講演案内のチラシをサービスのホッカイロにつけて、街頭に立って「相談やっています。血圧測っていきませんか?お医者さんもいます」とホッカイロを配ったが、この日訪れた人は10時から17時までで5名のみであった。我々が外に立っていると避けて通る人もいた。「街頭でティッシュを配るアルバイトの若者の気持ちがわかるね」と仲間と冗談を言いながら寒い中立って呼び込みをした。
声をかけた結果ステーションにきてくれた人の対応は、精神科医が主に話を聞き、うつなどの症状があり継続して関わった方が良いと判断した場合は医院を紹介することになっていた。1人1時間程度かけて話を聞いていた。
私はこの日は1人のみの面接となった。83歳の1人暮らしの女性で、からころステーションの近くに住んでいるということであった。自宅は1階まで水に浸かったという。買ってきた魚の料理から話が始まった。過去の悲しみは語らず、初めから肚の座った人という印象を受けた。「自分は過去は振り返らない。色々な苦労はみんなある。みんな苦労は語るけど、私は苦労話はしない。」(どうしたらそう前向きになれるのですか?)「大きなつらさを経験したから。腰の痛みはつらかった。痛みで身動きできず、生きるのはつらいと思った。…生きるっていう字は人と土って書く。人は皆土に帰る。震災で姉の娘と孫を亡くした。…自分は何も残すことはない。でも、字は残せるかなと思って、筆で般若心経を書いて亡くなった人の供養をしようと思った。でも、机がないから1時間も座っていることができない。(腰痛のため)……私はカラオケにも行きますよ。友達を誘っていくことも、1人で行くこともある。音楽聴いていると、いてもたってもいられないの。マイクもってね。(と歌うしぐさをする)」(じゃあ、ここで踊りましょうか?)「いいですね」とすぐに応じてくれる。写真を取ることの承諾を得て、スタッフに写真をとってもらうと「え~っ?新聞にのるんですか?どの新聞?」と写真を楽しみにされたため、後日送ることにした。杖歩行の方であったが、以前社交ダンスをしていたということで、杖は使わずに十分に動くことができていた。20分くらいダンスをする。ダンス後に椅子に座ったままでリラクセーションを実施。「あら~、今日は本当に良かった。幸せ。他の人もダンスするの?」(いいえ、ここでは○○さんが第1号です)「あらまあ。本当に良かった。ありがとう。今度はいついらっしゃるの?誰かを誘ってきたいわ。」と少し高揚しながら話す。しばらく話をし、医師を交えて交流した。
まとめ
「からころステーション」では、誰がいつきてもいいように事務局3名と遠方からの専門職ボランティア数名で待機している。利用する人は高齢の方が多く若い人の利用は少ないようであった。ときどき、医師による講演会が開かれているが、それ以外はイベントはないため、何かきっかけがないと来づらいのではないかと思われた。今回の経験から定期的にリラクセーションやダンスを企画すると、利用者が少しは出てくるのではないかと思われた。時期的には、震災後の身内を失った喪失体験は専門職ボランティアに何度か語ることにより、少しずつ客観的にとらえられるようになってきているように感じられた。アルコールの問題、子どもの不登校などの問題も耳にするが、多くの子どもたちはつらい体験をしていない子供よりも真剣にたくましく生きているように思える。また私が出会った高齢の女性達もまた達観している人が多かった。
「人を癒す」などということはとてもおこがましいことだと思うようになった。これは年末に芸術療法学会で坂本龍一氏がそのように語っていたことも影響している。どの時期に出会って話を聞くかにもよると思うが、震災から8ヶ月過ぎた今回の11月12月という時期は、既に多くの傾聴ボランティアに話を聞いてもらっているということ、仮設住宅ではあるがとりあえず衣食住は確保でき、さまざまな問題は抱えつつも前向きに生きている、そのように感じた。引きこもっている状況にある人には接することがなかったので、一方的な見方になるかもしれないが、専門的なこころのケアが必要な人は多くはないと思えた。
震災から4ヶ月目の7月に宮城県、岩手県、福島県から集まった音楽療法士の人たちにダンスセラピーの研修と参加者(全員が被災者)の話を聞く機会があったが、語り始めると涙がこみ上げてくるという時期であった。ダンスセラピー後に語らいの時間を設けたこともあり、ある程度緊張は取れ1人1人がそれぞれの物語を語ってくれた。人は異なるが反応もまた異なるように思えた。生きていく知恵をもっている高齢者、いずれは皆死ぬということを受け入れている高齢者から学ぶことは大きかった。
色々な問題を抱えながら、楽しめる余裕がある人は健康である。数少ないボランティア経験の中で、リラクセーションやダンスを提供すると殆どの人が気持ちいい、楽しいという。お世辞や社交辞令もあるであろう。そのような気遣いも含めて余裕を感じられる交流であった。出会った方々の笑顔や「楽しい」「気持ちいい」「ありがとう」という言葉を聞くと自分自身が癒され、元気になっていくように思えた。
瀬戸内寂聴が東北を回り説法をしていたドキュメントがお正月に放映された。素晴らしい関わりに涙が出た。半年ほど腰椎圧迫骨折で4月まで寝たきり状態にあった寂聴さんであったが、東北を回って被災者の方たちやボランティアの人たちと会っていくとどんどん自分が元気になっていったと述べていた。自分と出会って相手が何かしら変化していく状況は自分自身の中にある癒しのシステムも働いて元気になるのだろうか。最後に寂聴さんが語った「和顔施」が印象的であった。和顔施とは仏教用語で無財の七施のうちの1つで、いつも和やかで穏やかな顔つきで人や物に接することをいうそうで、笑顔よりさらに奥が深いということであった。穏やかな笑顔で接すること、そのものが既に施しになるというこの言葉は、何もできない自分がせめて笑顔で接したことへのご褒美のように思えた。
私は、看護師という資格はあるもののしばらく臨床を離れて教育の現場にいるため、精神科以外に何の役にも立たない肩書だけの看護師である。しかし現在はプロ意識をもったダンスセラピストとして人と接するようになった。そのプロ意識の1つが穏やかな笑顔であることに気づいた。プロになるために自己を分析するより、仏教の七施を学ぶことが自分にはふさわしいと寂聴さんの関わりと語りから学ばされた。そして、がん患者さんと接して学んできた死生観がこの震災でも考えさせられ、「今を生きる」ことの重要性を改めて認識させられた。
このような機会を与えて下さった本協会の平井会長、町田事務局長、会員の皆様、そして梅田先生と奥様の美知恵様に心より感謝申し上げます。
2012年1月4日記
(JADTA News #101より)