『ケアに活かすダンス&ファンタジーセラピー 癒しの臨床』

大沼小雪著 エム・シー・ミューズ 1,575円

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ダンスセラピーの「臨床」の意味を教えられる。

6月のある日、「さらっと読んでください。2時間以内で読めると思います。」というお手紙付きで著者の大沼さんからこの本が送られてきた。 結果はとても2時間で読める内容ではなかった。 精神科のさまざまな症状を持つ患者さん達との関係は、それまでに病棟で多くの経験を積んできた著者だからこその対応である。 そしてしばしば「治療」という行為をはるかに超えた、人間としての大沼さん自身の心の揺らぎや苦悩、不安さえもが鮮明に語られる。だからこそ患者さんも一人の苦悩する人間として、そのままの姿で大沼さんの前に居られたのであろう。たくさんの感動は著者の一途な誠実さと何やらのどかさの所為である。
ここでは精神科病棟におけるダンスセラピーをはじめ、知的障害者の方や高齢者施設でのダンスセラピー、個人セッションなど多様な人々と向き合い、病理の特徴や症状がリアルに語られているので、私たちはその方たちの表情さえ容易に想像できるほどである。あたかも著者と共に患者さんの前にいるような感じさえする。著者は「この本をサラサラと読んで、よくわかった、自分もできそう、と思っていただければ幸いです。」と述べる。それは看護師としての医療体験による確信と看護教員として後身への信頼感を感じさせる。
とにかくこれほど多様な症状の人々とのダンスセラピーの症例は他には見当たらないし、私たちに多くの示唆を与えてくれる。それらの一つ一つはさらっと読めるはずもなく、私はマークを入れ、後戻りし、思わず立ち止まっては行間に流れる著者と患者さんの交わりを想像した。それでは、私が思わずマークを付け、立ち止まった箇所などについて、その一端を述べて行こう。
ダンスという身体の表現は普通に行えない動作やリズムを伴うことが多い。それは一種の「遊び」であり、日常とは違う枠組みを持つ時空間世界を創り上げる。その最も特徴的なものが「身体のふれあい」であろう。近年は握手やハグを自然にあるいは照れながら行なっている人をしばしば見るが、日常の挨拶として誰とでも行なえるものではないだろう。ただ、「ダンス」としてなら、音楽に乗るなら、フォークダンスがそうであるように手をつなぎ肩を組むことも「楽しい」ものとなる。
著者は「孤独に対する一番の薬は触れ合うことである。」と断言する。そして、「安全を守るプロ意識、孤独を和らげるプロ意識が、触れ合うことの抵抗を無くした。(P.83)」と自分を振り返る。「ふれること」「ふれ合うこと」の意味はそれほどに深く心に響くものと言える。著者の言葉から、他者身体への近接やふれることは臨床表現のプロとして想像力と創造性が問われることに思い至るのである。
そしてもう一つ、ダンスという遊びでは現実にはあり得ないことも有り・・・なのである。空想や想像の世界が目の前に広がるとき、人は現実という枠を飛び越えて完全自由の身になれる。部屋の中に森ができ、森の中に穴を堀り、そこに過去を詰め込んだ鉄の箱を埋める。その上に枯葉が積もり、春になると双葉の芽が出てきて大きな木となる。天までとどく豆の木。ジャックと豆の木だ! 著者は言う、「あなたの過去は、あなたを成長させてくれる栄養になってくれたね。」すると患者さんは「あっ、そうだったんだ。」と自分の過去を肯定的に受容する。自分の過去の苦しみをジャックと豆の木が吸い取って栄養にしてくれるというイメージを膨らませ、心を取り戻して仕事を再開する。でも、やはりつらいことも起きて「心がしぼんで」しまう。すると著者は「心がしぼんだら、空気をいれればいいのよ。」と励まし、二人でハートに空気を入れるドラマとダンスをするのである(p.122 )。ダンスという遊びの、生命を支える大きな力を見事に引き出すセラピストの力量を示してくれる症例である。読者の心もすがすがしい空気で満たされる、まさにファンタジーセラピーである。
さて、もちろんダンスセラピーは万能ではないし、万能であるはずもない。著者はダンスセラピーがうまく効果しない例も率直に披露する。患者さんの「今」は病気や症状によって辛うじて支えられていることがある。だから、著者は「彼女から学んだこと、それは直してはいけない症状があるのではないかということです。」(p.110)と。著者のこの言葉は臨床を実践する私たちの心に重く響く。
どのページからも臨床家としての経験を土台にした著者の温かく優しいまなざしと精神医療を支えるダンスの力をとことん信じる姿勢に心打たれる。(平井タカネ)

日本ダンス・セラピー協会ニュースレター 『JADTA News』 84号より転載